『幼い子の子育て2011.7@大阪』を聞いて
若い世代の方が子育てが難しいと感じるのは、このお話のあった2011年から13年経った今も変わらないように思います。むしろよりその雰囲気なり社会的実態は加速しているように思います。要因については今回のお話にある内容(育児情報過多、先行きの見えない社会、個人主義の徹底)と同じかもしれないと思うと同時に、人々の暮らしに根差す競合性はより深く、強くなっているように感じます。世界に目を向ければ各地で起こる戦争やテロ、日本に目を向ければ堕落し腐敗した政治、いつの間にか活気をなくした日本の産業。一体、私たちはどこに向かっているのだろうと思います。そういう社会では必然的に人は競合的に生きるしかないように思います。人と比べて自分はどうか、人よりも劣っていてはいけない、勝たなければ、あるいはせめて負けないようにしなければという物差しを常に持ち歩いているように思います。これでは安心して子どもを産み、リラックスして子育てなどできるはずもありません。
ライブラリでは幼い子どもへの育児の大切さをかみしめながら、一方で私たちはどうやって子どもたちに未来を託していったらいいのだろう、そもそもどんな未来を描けばいいのか、それさえももはやわからなくなっているような気がしました。そういう中で新年早々にAIJ理事のみなさまによるシンポジウム『アドラー心理学の、しあわせのかたち~平等の位置~』を聞きました。シンポジウムのお話と重ね合わせながら、『幼い子の子育て』で語られている、なぜ幼い子どもの子育てで基本的安全感を養うことが必要になるのか、なぜ実現すべきは家族なのか、なぜ幼い子どもにたくさん話しかける、問いかける必要があるのか、なぜ子どもを子ども扱いしてはいけないのか、その理解が少し深まったように思います。
シンポジウムでは社会的平等(social equality)という概念に触れることができました。特に社会的平等は社会的劣等感と対をなす概念であることを知り、『幼い子の子育て』で語られていることは社会的劣等感から抜け出して、社会的平等を取り戻す、あるいは社会的平等を思い出すための出発点であり基盤であると改めて理解できたように思います。
以下、『幼い子の子育て』とシンポジウムから印象に残ったことを私なりに要約して感想を書いてみたいと思います。
①『幼い子の子育て』から
以下のような発想そのものが失われてきている。
・子どもは自然に育つ力がある、父母は自然に育てる力があると、一番、基本的なところで自信、確信を持つ。
・家族があって個人があるのであって、個人が集まって家族ができるのではない。家族が次の世代の家族を作ることが大事で、連続していくことが大事。個人はそのお手伝いをするのが本来の仕事。
おしゃべりする前の子育てについて述べられていたことは、
・この世に生まれてきてよかったな、この家族に生まれてよかったな、お父さんとお母さん大好き、私も愛されてるなという一番、基本的な住み心地のよさを体験してもらうこと。これが基礎であり、基本的安全感という。
・とにかく子どもをかわいがる。
・子ども扱いしないでたくさん話をして、問いかけて賢い子を育てる。
・賢いとは言葉が上手に使えること。言葉が上手に使えれば、上手に自分のことを表現でき、上手に相手の言っていることを理解できる。
・これから先の我々の生活がよくなるかならないかは、人々がちゃんと言葉を使えるかどうかにかかっている。
ライブラリの最後に、
・結局、アドラー心理学は未来の人類を作ろうとしている。一人でも多くの子どもが平和に協力して、みんなを尊敬して貢献して暮らせる社会を作っていかないといけない。
・人間には心の中に良識というものがある。適切に問いかけていけば、必ず教育的に心の中にある良識を引っ張り出すことができる。
・こういう育児なり教育ができるためには、親とか教師が、アドラー心理学の一番、根本にある思想、方向性を、アドラーが願ったことをはっきりと了解、納得しておく必要がある。
②シンポジウム『social equalityという考え方』(大竹優子先生のお話)から
・社会的平等(socialequality)という言葉は社会的劣等感(social inferiority)と対をなす言葉。
・社会的平等というのが、人はみんな、価値において平等という考え方だとすれば、社会的劣等感というのは、自分は人に比べて、価値が低いという感じをいうことになる。
・自分自身の中にある社会的劣等感が、平等を感じることを妨げている。社会的劣等感は、すべての人間が尊厳と自尊心を持って、社会に参加することを妨げる。人と人は対立して、どちらが価値が上か下かを争うことになる。それが個人と個人の間だけではなくて、そういう人が増えると社会全体が競合的になる。そこから様々な差別や偏見が出てきて社会問題につながる。個人のケンカとか国や地域の戦争もそういう意味で構造は似ている。環境が人間をつくり、人間が環境をつくるから、個人の問題は個人の問題に留まらず、社会の雰囲気をつくっていくし、また社会の雰囲気は個人に影響を及ぼす。今、社会で起きていることはまさにこういうことではないか。
・人はみんな違っているけれど、価値は平等、みんな、かけがえのない存在なんだと考えるとドライカースや野田先生が言ったように、日常生活で誰であっても相手の人を一人の人として信頼し、尊敬し、対等な人間として向き合うことができるように思う。そうすることは自分が劣等の位置に陥ったときも、平等の位置に戻る手掛かりになりそうに思う。劣等の位置に陥ったときは、自分は価値が少ない存在なんだと思ってしまうが、でもそれは仮想。私だけ価値が低いわけではない、相手の価値が高いわけでもない、本当はみんな違っているけれど、価値は平等で対等な存在なんだと、と思い出すことができる。
人間は社会的劣等感を抱くことによって、競合し、優越の位置に立たなければ失敗者だと恐れる生き物のようです。本来は、人は人間としての尊厳と価値において平等、つまり社会的平等であるはずなのに。でもこの社会的平等の感覚は生まれたときはまさにそうであったはずです。でもある日、何かしらできない、これではいけないと思い込んで、優越の方向に舵を切ります。人間である限り、これは避けて通れないと思います。でもこの延長線上には人と人が協力して平和に暮らす世界はありません。人は真に平等であるという感覚を思い出して、平等の位置を取り戻す必要があります。そういう社会的平等の基盤となる感覚を養う、あるいはその手掛かりとなるのが幼い時期の子育ての在り方なのだろうと思います。まだ言葉の出ない子どもは親がたくさんかわいがって、たくさん語りかけて、この世はいいところだ、お父さんもお母さんも周りの人々は信頼できる人だという基本的安全感を養い、さらに言葉が出るようになったらたくさん問いかけて子ども自身に考えてもらい賢い子どもを育てていく、そういうことそのものが社会的平等を体得していくことに繋がるのだろうと思います。まさに親と子は対等で平等な関係だと思います。そして、これから先の我々の生活がよくなるかならないかは、人々がちゃんと言葉を使えるかどうかにかかっている、つまり社会的平等が実現できるかどうかは言葉の力だということだと思います。いかに幼い時期に、親が子どもを子ども扱いしないで話かけること、問いかけることが大切なことかと思います。
また同じシンポジウムで野田文子さんが『アドラー心理学は苦行か』の中で、
・劣等の位置から優越の位置へという動線は、平等の位置が見つかると消滅する。
・一人の人間が世界の平和を実現することは不可能かもしれないが、家族の中で、平等の位置を取り戻すことはできる。ミクロな共同体感覚を培っていくことは誰でもできる。
というようなことをお話されました。
一人の人間が世界平和を実現することは達成不可能な目標だが、家族、あるいは自分が所属している集団の中では、現場、現場での社会的平等を取り戻すことはできる、劣等から優越への動線は消せる、ということだと思います。家族は一人の人間の手の届くところにある一番、小さな共同体だと思います。この共同体は世界に組み込まれて存在します。小さな共同体であっても世界に組み込まれているのですから、よくも悪くも必ずそのまわりの世界に影響を及ぼします。家族が社会的平等を培っていく場として機能すれば、いつかその延長線上に社会的平等を取り戻したより大きな共同体があるように思います。家族がいかに大事な役割を担っているか、そしてそういう家族を相続していくことがいかに大切か、改めて痛感しました。
優子先生のお話の最後に、
エヴァ・ドライカース先生の言葉として“アドラー心理学は目標思考型心理学であり、常に未来志向です。私たちは時間に向かって前進する方向に進んでいます。私たちが今、うまくいくと思う解決策は未来をも守るものでなければならないのです。”
さらにイヴォンヌ先生の言葉として“世界はますますアドレリアンの智慧を必要としています”
を紹介されました。
このお話から自助グループについて少し触れたいと思います。自助グループにはアドレリアンの智慧がある!と思います。ミクロな共同体感覚を思い出し、育成していく最前線にある場が各地の自助グループだと思います。ここではパセージに加えてパセージ・プラス、エピソード分析等を用いて、無意識的目標の洞察と再決断というアドラー心理学固有の援助が行われていると思います。そこでは自分の現場での社会的平等の具体的なあり様、そこに至る方法が見つかると思います。人はこうやってミクロな世界で自分の周りの人と協力し貢献して生きていく、それを一つ、また一つと積み重ねていくしかないのだと改めて思いました。つまりよりよい未来に向かって、アドレリアンの智慧を活かして、その方向に歩き続けることに意味があるのだろうと思います。その歩みは未来を守る!に繋がると信じます。
それにしてもそもそも人は子育てにおいて初めから劣等の位置に落ちているんだなと思いました。私自身は確かにそうでした。子どもには自然に育つ力があるとか、親になった私には育てる力が本来あると思えていなかったように思います。頼るのは育児書であったり、保健師さんや小児科の先生のアドバイスでした。そして何がよい子育てなのかもわからないまま、よい子育てをしよう、よい親でいようともがいていたように思います。なので必然的にアドラー心理学に出会ったのですが。やはりアドラー心理学の果たす役割は大きいと思います。一体、どんな未来を子どもたちに手渡していけばいいのかと嘆く暇があれば、自分にできることをしようと思います。
(M・T)